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「夜間飛行/ちあきなおみ」

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「夜間飛行/ちあきなおみ」
(作詞・吉田旺/作曲・中村泰士/編曲・高田弘) 
・B面「二年前の秋」
・1973年(昭和48年)6月25日発売
・日本コロムビア
・15位(オリコン)

第14回日本レコード大賞を受賞した「喝采」の次作「劇場」、そしてこの「夜間飛行」を“ドラマチック歌謡三部作”とされている。
作家陣が「吉田旺・中村泰士」コンビという共通点もある。(「喝采」前作の「禁じられた恋の島」も同じコンビの作品。)

昭和歌謡を代表する曲として今も歌い継がれ語り継がれる名曲「喝采」の影響はとてつもなく大きい。
デビューは1969年(昭和44年)、翌年リリースした4作目のシングル「四つのお願い」ヒットし、続く「X+Y=LOVE」も斬新な詞と馴染みやすいメロディーで連続してオリコントップ10にランクイン。
ただ「喝采」が余りにも売れ(80万枚)たことから、代表曲になり他の曲のヒット(「矢切の渡し」など)がどうしても隠れる感は否めない。

「夜間飛行」もオリコン最高順位15位を記録し、同年の『第24回NHK紅白歌合戦』で歌唱されていることから、ヒット曲としての資格は十分といえよう。
基本的に8分音符、同じ音程の連続が極端に少なく階段を上がり下がりするようなメロディは、中村泰士の得意技。さらに伴奏を抑えた歌い出しはその後の展開を期待させる。
「喝采」をフェイバリットソングとしカバーする歌手は多いが、楽曲として同じ流れを汲む「夜間飛行」も意外と良く知られているようだ。
ネットでは紅白歌合戦でのパフォーマンスが見られるが、ほんの数分間を完全に自身の世界に引き込むちあきなおみに、現在の歌手を当てはまるのは無駄なことを痛感する。

デビュー当時のキャッチフレーズが「苗字がなくて名前がふたつ」や「魅惑のハスキーボイン」…誰が考えたかはともかく、よくぞ採用したもんですナ。

「あずさ2号/狩人」

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「あずさ2号/狩人」
(作詞・竜真知子/作曲・都倉俊一/編曲・都倉俊一) 
・B面「季節が変わる前に」
・1977年(昭和52年)3月25日発売
・ワーナーパイオニア
・第19回日本レコード大賞新人賞
・週間4位(オリコン)
・1977年度年間15位(オリコン)

デビュー曲でいきなりの大ヒット。音楽賞では新人賞に輝き当然のように紅白歌合戦に出場。これ以上ないスタートを切った愛知県出身の兄弟デュオ・狩人。
そんな人生の急展開が原因かどこまで関係しているか分からないが、兄弟はあまり仲がよろしくないようで色々なエピソードが聞かれる。
また、それを自虐的に面白おかしく「あずさ2号」の替え歌「兄と疎遠」として弟・高道がテレビで披露している。

竜真知子の作った詞は旅情と心情を絡めた傑作で、具体的な列車名ばかりか発車時刻まで盛り込んだ。確かに当時は8時丁度に新宿発があったとか。
作曲は、洋楽のエッセンスを散りばめて歌謡界に新しい風を送り込み続ける都倉俊一。垢抜けたメロディーを紡ぎ出す才能を基に、あえてフォークタッチのメロディーを仕上げている。
そしてこの曲の魅力は何といっても兄弟のハモリだ。声質は当然溶け込むのだが、二人の豊かな声量と確かな歌唱力で歌われることで完成するのである。

『コスモス街道』『若き旅人』『アメリカ橋』なども勢いのまま一応のセールスは記録するが、やはり「狩人=あずさ2号」のイメージが大きい。
大ヒットを飛ばした歌手の多くが通過する儀礼のようなもの“もう、あの曲は歌いたくない”時期もあったようだが、今の二人のハーモニーが聴けるのは喜ばしいことだ。

師でもある都倉俊一から「大ヒットという獲物を狙い続けるハンター(狩人)のような歌手に」と授けられた名前だそうだが、他には“みつばち君”ってな候補もあったそうですナ。

「我が良き友よ/かまやつひろし」

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「我が良き友よ/かまやつひろし」
(作詞・吉田拓郎/作曲・吉田拓郎/編曲・瀬尾一三) 
・B面「ゴローワズを吸ったことがあるかい」
・1975年(昭和50年)2月5日発売
・EXPRESS / 東芝EMI
・週間1位(オリコン)
・1975年4月度月間1位(オリコン)
・1975年度年間9位(オリコン)

咥え煙草に渋い出で立ちで決めるムッシュが印象深いシングルジャケット。
御年77歳(2016年現在)ながら、今のかまやつひろしが同じジャケットを撮影しても区別がつかないのでは?そんな事を思わせる。

音楽性の高さや豊かな創造性でミュージシャンからも人気のあったザ・スパイダースのメンバーだったことは広く知られている。
その頃は既に「水原弘、守屋浩、井上ひろし」と並び、同じ“ひろし”として人気ロカビリー歌手としてキャリアを積んだ後である。
孫のような若いミュージシャンとも積極的にセッションするなど、ミュージシャン魂に今も磨きをかけ続けている。

「あの時君は若かった」「いつまでもどこまでも」「バン・バン・バン」などの名曲を残したスパイダース解散後、ソロでも「どうにかなるさ」(1970年)のスマッシュ・ヒットさせている。
自身のオリジナルではなく、吉田拓郎が作詞作曲した「我が良き友よ」がミリオン・セラーとなり世間一般での代表作となる。
B面の「ゴローワズを吸ったことがあるかい」は90年代にアシッド・ジャズが注目された頃に名作として再び評価され、裏の代表作とも言える。

「下駄」「学生服」「下宿屋」「バンカラ」郷愁を誘う言葉を随所に散りばめ、跳ねたリズムに乗せて歌われる詞は長い。
吉田拓郎独特の言葉を無理矢理詰め込んだ作りではなく、それぞれの音符に自然に乗せており、広い層で愛唱されカラオケ店では男同士が肩を組み歌うことも少なくない。

実際に“ゴロワーズ”を愛煙しているそうだが、ジャケットの煙草もそうなんですかナ?

「みちづれ/牧村三枝子」

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「みちづれ/牧村三枝子」
(作詞・水木かおる/作曲・遠藤実/編曲・坂田晃一) 
・B面「恋かがみ」
・1978年(昭和53年)10月21日発売
・ポリドール
・週間8位(オリコン)
・第21回日本レコード大賞ロングセラー賞
・1979年度年間9位(オリコン)
・1980年度年間62位(オリコン)
・11位(ザ・ベストテン)
・1979年年間11位(ザ・ベストテン)

異なる歌手が同じ曲をリリースする“競作”は有名な「氷雨(佳山明生、日野美歌ら)」の他にもいくつかあるが、この「みちづれ」は小さなドラマがある。
「くちなしの花」で150万枚のヒットを持つ俳優・渡哲也のシングルであり、オリコン最高位55位となったのが「みちづれ」である。
当時、同じレコード会社に所属していた牧村三枝子がカバーして大ヒットとなるのだが、その経緯が諸説あって興味深い。
この曲に惚れ込んだ牧村が、どうしてもカバーさせて欲しいと渡に直談判したという説。反対に渡の方から「歌ってみないか」と提言したという記述してある書物もある。
ただ、ドラマはそこではない。牧村三枝子がリリースすることに決まったことを受け、オリジナル歌手の渡哲也は自身のシングルレコードを廃盤としたのだ。“男・渡哲也”のちょっといい話である。

このヒットで、念願だった紅白歌合戦に出場し代表曲にもなるのだが、作曲した遠藤実のレッスンは厳しいものだった。
男性キーの曲なので通常は女性キーに合わせて移調する。そして遠藤は、牧村の声域の一音上を使う調で歌うことを命じた。
特にサビは高い音符が連続するから誤魔化しも効かない。その厳しさからレッスン中に声が出なくなったこともあるというが、諦めることなく我が歌として完成させたのだった。
渡哲也の男気をしっかり受け止め、見事にオリジナルを上回るヒット曲にした牧村三枝子。大病を患い一時は余命宣告まで受けたが、2004年に復帰し歌手生活は今も続いてる。

そもそものきっかけは、渡哲也主演のTVドラマ『大都会』に出演していた牧村三枝子を気に入ったこと…らしいですナ。

「もしもピアノが弾けたなら/西田敏行」

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「もしもピアノが弾けたなら/西田敏行」
(作詞・阿久悠/作曲・坂田晃一/編曲・坂田晃一) 
・B面「いい夢見ろよ」
・1981年(昭和56年)4月1日発売
・CBSソニーレコード
・第23回日本レコード大賞金賞
・4位(オリコン)
・1981年度年間25位(オリコン)
・4位(ザ・ベストテン)
・3位(ザ・トップテン)

人気テレビドラマ『池中玄太80キロ』の主題歌とし世に出た、今や日本を代表する名優・西田敏行が歌うヒット曲。
パート1(全13話)に平均視聴率が21.3%を記録し、続けてパート2、パート3、そしてスペシャルも3作られている。
元は「いい夢見ろよ」が主題歌としてA面でリリースされたが、視聴者の反響が挿入歌の「もしもピアノが弾けたなら」に集まる。
レコード会社の行動は素早く、主題歌と挿入歌のポジションを入れ替え、その流れから自然とA面B面も反転することとなる。

ドラマの主役で、主題歌や挿入歌をその俳優が歌ってヒットした例は珍しくない。そして、加山雄三や中村雅俊など歌手としてもヒット作を多く残す俳優もいる。
西田敏行は「もしもピアノが弾けたなら」を代表作とし、俳優業を主としたスタンスで今も活躍している。
俳優だけに表現力豊かな歌唱ながら、メロディーは16分の譜割が多く、また起伏に富んでおり歌唱力が無ければ歌いこなせない。
この曲が余りにも有名であるが故に隠れがちだが、プレスリーのカバー「LOVE ME TENDER」などは一人の“歌手”として名唱と言えるだろう。
そのキャリアはもちろん、映画俳優としての受賞歴などから間違い無く大物俳優であるが、地方ローカルのTV番組のレギュラーをこなすなど大物ぶらないところが人々の心を惹き付ける。
エンターティナーとは西田敏行を表現するのに最適の言葉ではないだろうか。

『池中玄太80キロ』は全作品DVD化されているらしい。もう一つの挿入歌「鳥の詩/杉田かおる」も名曲ですナ。

「ホテル/島津ゆたか」

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「ホテル/島津ゆたか」
(作詞・なかにし礼/作曲・浜圭介/編曲・竜崎孝路) 
・B面「ホテル(カラオケ)」
・1985年(昭和60年)2月5日発売
・キングレコード
・第18回日本有線大賞有線音楽賞

男の心情を女性が歌うことより圧倒的に多いのがその逆だ。せつない女心を“わたし”という一人称で切々と歌う…そんなヒット曲は数え切れないほどあるだろう。
調べたわけではないが“ぼく”が主人公の歌を女性が歌う場合、アイドル歌謡やフォークに多いのではないか。そして、演歌系では咄嗟には思いつかない。

比喩や暗喩は使わずに、物や状況を具体的に並べて不倫にあえぐ女性の窮屈さを表現した詞は、御大なかにし礼。
中でも“ごめんなさいね私見ちゃったの”という振りの直後“私の家の電話番号が男名前で書いてある”の部分は強烈な印象を残すようで、曲名や歌手を知らなくてもこの部分だけは歌える人は多い。
女性男性で受ける印象が違うのは当然としても、何故に男性ヴォーカルの歌が広く受け容れられたのか。女性ヴォーカルでは生々し過ぎるのか。
インパクトが大きくストレートな歌詞がどうしても目立つが、キャッチーなメロディももちろんヒットの要因であることに違いない。
カラオケの十八番にしてる人も多いようで、一定の人気を保っている。

競作として世に出たが、有名なのは島津ゆたか盤。B面にはカラオケを収録しているところも卒がない。
島津ゆたかは「花から花へと」のヒットもあるベテランの域に入る程の歌手だあったが、ラジオの公開番組出演時の不適切発言で謹慎し、残念ながら現在まで目立つ活動はしていなし。

芸能人の不倫スキャンダルが連発している2016年。この歌詞ではないけれど“そに為に誰か泣かしてもいい”とまで覚悟のあるのは誰でしょうナ。

「アカシアの雨がやむとき/西田佐知子」

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「アカシアの雨がやむとき/西田佐知子」
(作詞・水木かおる/作曲・藤原秀行) 
・B面「夜霧のテレビ塔/原田信夫」
・1960年(昭和35年)発売
・日本グラモフォン
・第4回日本レコード大賞特別賞

当初はA面とB面が違う歌手という珍しい形でリリースされた、西田佐知子4枚目となるシングル。
ジャケットの写真も二人共レイアウトされたいたが、この曲がヒットしリニューアルされた際に西田佐知子のみとなっている。

「コーヒー・ルンバ」などのカバーもありポップスよりの歌手というイメージがあるが、ヒットするまでには浪花けい子という名で日本調の歌を歌っていたりもする。
その時期は、廃業すら考えていたと言うから人生分からないものである。
レコード会社のディレクターが打ち出した方針は「悲しい女」。そして「アカシヤの雨がやむとき」と同じ(作詞は志津恵美子で水木かおるは補作詞となっている)作家陣で「夜が切ない」を1959年(昭和34年)にリリース。
売上げは芳しくなかったものの、翌年も同じ路線で打ち出し成功する。

今や昭和歌謡を代表するスタンダードで、一流のアーチスト達が様々なアプローチでカバーを残している。
中でも藤圭子のヴァージョンは出色の出来で、オリジナルと双璧を成していると言っても過言ではない。

ノンビブラートでしゃくりもなく、瞬時に正しい音程へ当てる事の出来る希有な歌い手と言えるが、結婚(1971年)を機に仕事量をセーブ。
1982年のシングル「テレビを見ている女」を最後に家庭に納まったのは歌謡曲ファンにとっては少々残念なことであろう。

“アカシアの雨”とは?…そんなことを起点とし、この詞の解釈が飛び交っているのが興味深い。それだけ“良い詞”ということでしょうナ。

「精霊流し/グレープ」

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「精霊流し/グレープ」
(作詞・さだまさし/作曲・さだまさし/編曲・グレープ) 
・B面「哀しみの白い影」
・1974年(昭和49年)4月25日発売
・ワーナー・パイオニア
・第16回日本レコード大賞作詩賞
・週間2位(オリコン)
・1974年度年間13位(オリコン)

情報がいとも簡単に手に入るネット社会。ちょっと疑問に思ったことなど手元のスマホで検索すれば1分とかからず答えが分かる…その信憑性は別としても。
そう言った状況がどれほどの原因になっているかは分からないが、歌手の年齢や出身地、血液型なんて情報まで昔に比べて格段に知れ渡っている気がする。
さだまさしが長崎出身であることも、ファンの別なく何となく知識としてインプットされている人が多いのではないか。
この「精霊流し」と言われる行事は先祖の霊を見送るもので、長崎県の各地で行われている。

さだまさしがデビューしたのは吉田正美(現・吉田政美)と組んだフォーク・デュオ“グレープ”で、1973年(昭和48年)のことである。
シングル6枚、アルバム4枚を残し約2年という短い活動期間を終えている。のちの再結成が“レーズン”名義であるのは、さだまさしの洒落っ気だろうか。
グループ解散の翌年「線香花火」でソロ活動を開始し、1977年のシングル「雨やどり」がオリコンシングルチャート1位を獲得。「精霊流し」の最高チャートは2位どまりだった。

実の従兄への追悼歌である歌詞は第16回日本レコード大賞作詩賞を受賞している通り、のちの“さだワールド”が既に確立されている。
主を失い暫く弾かれなかったギターをつま弾いた“私”が、錆び付いた弦で指を切るくだり…

〜いつの間にさびついた糸で くすり指を切りました〜

…と、弦を敢えて“糸”としている。
また、叔母の着物の色を“浅黄色”とし、イメージ出来そうで出来ない絶妙の表現で聴く者を引き込んでいる。
マイナーの曲ながら、平行調のメジャーになってからの歌詞も救いがあり決してお涙頂戴で終始しているわけではない。
マイナーからメジャーへいき再びマイナーに戻ることは珍しくはないが、流れとしてはやはり“さだワールド”が展開している。

一説によると、60年以上続いた昭和という時代の中で作られた歌のうち、長崎絡みのものは100曲近くもあるらしいですナ。

「贈る言葉/海援隊」

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「贈る言葉/海援隊」
(作詞・武田鉄矢/作曲・千葉和臣/編曲・惣領泰則) 
・B面「踊り子」
・1979年(昭和54年)11月1日発売
・ポリドール
・週間1位(オリコン)
・1980年度年間6位(オリコン)
・1位(ザ・ベストテン)

イメージ慣れとは怖いもので、今“海援隊”と聞いて“坂本龍馬”が思い浮かぶ人はどれぐらいいるだろうか?
「金八先生」や「武田鉄矢」が脳裏に現れる率が、世代の若さに比例して多くなると確信する。
武田鉄矢率いる“フォークグループ・海援隊”が世にその名を知らしめたのは「母に捧げるバラード」(1973年)のヒットだが、それまでは「海援隊=坂本龍馬」の図式が100%だった筈だ。

卒業シーズンの定番曲となって久しいこの曲は、テレビドラマ『3年B組金八先生』の主題歌としてお茶の間に浸透し、売上は何と100万枚を超えている。
歌詞の内容は特に卒業生に向けての“贈る言葉”ではなく人生の節目に似合うような言葉が散りばめられており、実際に結婚式や送別会などでも良く歌われる。ちなみに作詞者である武田鉄矢は自身の失恋体験を基にしたと語っている。
作曲は海援隊のギタリストである千葉和臣。歌詞の根底にある人間愛というテーマにそぐう、ゆったりと流れるメロディーラインは映画「エデンの東」のテーマ曲にインスパイアされたという。

テレビドラマ史を語る上で外せない『3年B組金八先生』だが、その人気ゆえにシリーズが続いていき主題歌もそれぞれ存在する。しかし、この第1シーズンの主題歌は特別なものとなる。
「日本の歌100選」や「後生に残したい流行歌」のような企画にも、必ず上位にランクインするのであるから間違い無くスタンダードといえよう。
そしてスタンダードにはカバーが多いという法則にも違わず、素直な歌唱から大胆にアレンジを変えたものまで多種多様である。
ただ、そのいずれもが金八先生にしか出せない味や説得力には及ばないのだが。

その金八先生こと武田鉄矢は、実際に教師課程を修了し教員免許を持っているんですナ。

「さよならはダンスの後に/倍賞千恵子」

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「さよならはダンスの後に/倍賞千恵子」
(作詞・横井弘/作曲・小川寛興) 
・B面「妹よ」
・1965年(昭和40年)3月10日発売
・キングレコード
・第7回日本レコード大賞作曲賞

21世紀も早や15年が経過し、高齢化社会もますます進んでいる2016年。それに伴ったかどうかはともかく、息の長い歌手も多くなったようだ。
歌謡曲全盛時代のように3ヶ月毎に“新曲”を出すこともなく、引退宣言をしなければやはり歌手であろう。
倍賞千恵子は「男はつらいよ」シリーズの“さくら”役があまりにも有名で、歌手としての認識がない向きも多いのではないだろうか。
松竹歌劇団(SKD)を首席で卒業している歴とした歌手であることは、その歌唱を聴けばすぐに分かる。

1963年(昭和38年)に大ヒットした「下町の太陽」は映画にもなり主演も務めている。そのまま歌手デビューし、2年後のヒット「さよならはダンスの後に」も代表曲としてなる。

月光仮面の作曲で有名な小川寛興が「気に入ったメロディが出来たので、だれかに詞を付けて欲しい。」とディレクターに渡したところ、横井弘に依頼がいく。
少し憂いを秘めつつも、ルンバのリズムで華やかさを伴うメロディーの雰囲気を活かし見事な詞を付けた。
「下町の太陽」の時に付いた庶民的なイメージから脱却できずにいた倍賞千恵子の歌唱は、最終的に150万枚のセールスで大きなステップアップを果たす。

実際に海外の一流アーチストらもカバーしているように、完成度の高い楽曲だ。平行調のマイナーからメジャーへの流れもセンスが光る。
大ヒットアニメの主題歌に酷似していると一時話題になったが、小川寛興側は特にアクションを起こさずにいた為、余計に様々な推測が飛び交うという皮肉な結果となる。

息の長いと言えば「下町の太陽」を撮った山田洋次監督。御年84歳にして最新作「家族はつらいよ」がヒットしてますナ。
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