SSブログ

「遠くへ行きたい/ジェリー藤尾」

遠くへ.jpg
「遠くへ行きたい/ジェリー藤尾」
(作詞・永六輔/作曲・中村八大) 
・B面「インディアン・ツイスト」
・1962年(昭和37年)発売
・東芝レコード

作詞作曲のゴールデンコンビの元祖とも言える“六・八コンビ”(永六輔・中村八大)の作品。
テレビが特別だった頃、NHKが1961年(昭和36年)から毎週放送していた『夢であいましょう』の「今月のうた」として発表されている。
世界へ誇る日本の名曲「上を向いて歩こう」(1961年10月〜11月)もこのコーナーからのヒット曲だ。
他にも第5回日本レコード大賞(1963年)に輝いた「こんにちは赤ちゃん/梓みちよ」を始め、数々のヒットが飛び出している。
「遠くへ行きたい」は1962年(昭和37年)の5月に発表され、しっとりとしたイメージが大いに話題となる。
全体に漂う雰囲気と歌詞は郷愁を誘い、文字通り“遠くへ行きたく”なるようで、民放の長寿番組「遠くへ行きたい」で長きに渡りテーマ曲として流れている。
ただ、こちらではジェリー藤尾の歌唱ではなく、デュークエイセスに始まり永六輔や小林旭、石川さゆりとバラエティに富んでおり、2016年現在は一青窈の歌唱が聴ける。

六・八コンビの作品は136曲と言われている。但し、永六輔は1968年(昭和43年)に作詞活動にピリオドを打っているので、コンビとしては約10年間となる。
1年に13〜4曲。1ヶ月に1曲以上をコンスタントに創作し続けたことになる。
心をうきうきさせるような跳ねるリズムの曲と音価の長いゆったりとした壮大な曲、いずれも中村八大の得意とするところであるが、この曲のサビも実に彼らしい音運びだ。
解釈によってはメジャーに転調しているサビから自然にマイナーに回帰する流れは絶妙。そこに聴く者は無意識に大きな安堵感を覚えるのはなかろうか。
歌詞の方を読むと決して長くない。しかし、それは言葉の一つ一つに置き換えや削除を許さない隙のなさを感じる。
意外なことに、当初は40行に渡る長い詞だったという。先に出来ていたメロディには全く収まりようがなかったが、曲の完成度を優先させて中村八大は何と4分の1にまで縮小する。
作詞した永六輔の心中や如何に…であるが、こんなにも長く歌い継がれていく様子に目を細めているに違いない。

『夢であいましょう』が生放送であったことはなるほどでもあるけれど、あの寅さん(渥美清)が出演していたのには少々驚きましたナ。

「愛の水中花/松坂慶子」

愛の.jpg
「愛の水中花/松坂慶子」
(作詞・五木寛之/作曲・小松原まさし/編曲・小松原まさし) 
・B面「雨の舗道で」
・1979年(昭和54年)7月1日発売
・コロムビア
・2位(オリコン)

TBS系ドラマ「水中花」主題歌として発売。当時、松坂慶子は27歳であるが、演技にしても歌唱にしてもテレビの中の彼女は余りにも大人の女性であった。
27歳といえば、2016年の今で挙げると西野カナや小嶋陽菜(AKB)、Perfumeの3人などが同じ年代だ。時代は変わると言えばそれまでだが、軽く唸ってしまうではないか。

ドラマの原作は五木寛之。この曲の作詞も手がけている。ベストセラー作家としてのイメージが強いが、CMの企画や演出、作詞までこなした実績がある。
波瀾万丈とも言えるストーリー展開のドラマで、劇中でバニーガールに扮する松坂慶子。そして、歌番組での歌唱もそのままの姿で登場することもあり、忽ちヒットする。
女優が歌うことは珍しくはなく、豊かな表現力で歌唱力に耳が行かない場合もある。台詞の発声は出来ていても歌の発声とは少し違うのだろうか、歌そのものに酔うことはあまりない。
ところが松坂慶子は、歌手としても及第点以上の歌を歌っている。決して美貌やバニーガールの衣装に誤魔化された訳ではない。
調べてみると、小学2年の時に「くるみ児童合唱団」に入団している。中学時代は演劇部に所属し「劇団ひまわり」にも籍をおく“タレント予備軍”だったようだ。
中学の卒業を待たずしてテレビに初出演しており、女優としてのキャリアは長い。しかしまだ63歳。女優としてもこれから色んな顔を見せてくれるだろう。

ヒットの最中、とある人気歌番組で、ステージにバスタブをセッティングし“入浴”しながらのパフォーマンスには度肝を抜かれましたナ。

「帰って来たヨッパライ/ザ・フォーク・クルセダーズ」

帰って来た.jpg
「帰って来たヨッパライ/ザ・フォーク・クルセダーズ」
(作詞・松山猛・北山修/作曲・加藤和彦/編曲・大橋節夫) 
・B面「ソーラン節」
・1967年(昭和42年)12月25日発売
・東芝音楽工業(Capitol Records)
・1位(オリジナル盤、オリコン)
・1968年度年間2位(オリコン)

自主制作で300枚作ったLPの中の1曲がシングルカットされ忽ち100万枚売れ、最終的には280万枚以上と喧伝されるまでとなった。
時代は“10万枚でヒット”の感覚である。一家に一枚もあながち大袈裟な表現とも言えない数字ではないか。
音楽好きのアマチュア学生に、レコード会社の方からお願いしてリリースしたレコードが生み出したマンモスヒット。
これを機に、原盤権などを始めとする商業的な仕組みが改めて見直されもした。

残した数字の大きさもさることながら、様々な話題がついて回るこの曲はその裏話的なエピソードも有名になるものだ。
テープの回転速度に関するギミックや、最後のお経がビートルズの「A HARD DAY'S NIGHT」の歌詞であること…この辺りは一般的。
作詞は「松山猛・北山修」の共作とクレジットされている。松山猛はメンバーではないが、のちに加藤和彦ソロやサディスティック・ミカ・バンドの作詞を担当し、「陰のフォークル」「陰のミカバンド」とも称された。
飲酒運転で事故死した“オラ”が天国で好き放題したあげく“神様”の怒りをかい下界へ追い返されるという“ストーリー”は、昔風に言うと「ナンセンス・ソング」になるだろう。
しかし、交通事故による死者が日清事変の戦死者の数に匹敵すると言われた時代。笑って聞き流せるものでは無かっただろうが、それは現在も同様であることが嘆かわしくもある。

さて、このヒットの勢いを次作に乗せたいレコード会社は、同じLPの収録曲である「イムジン河」に決定し、端田宣彦を新メンバーに迎え3人で新録音。
約3ヶ月後(翌年2月21日)の発売直前には「帰って来たヨッパライ・ヒット記念パーティー」も開催されている。
しかし当日、記者会見の席上で「イムジン河」についての国家的問題が取りざたされ、結局は急遽「発売中止(自粛?)」となる。

2002年、坂崎幸之助を加えた“新”結成も大きな話題となったが、加藤和彦が既にこの世にいないことは日本の音楽界にとっては大きな損失である。

それにしても、レコードジャケットの英文曲名表記は “I ONLY LIVE TWICE” とは洒落てますナ。

「お嫁においで/加山雄三」

お嫁に.jpg
「お嫁においで/加山雄三」
(作詞・岩谷時子/作曲・弾厚作/編曲・大橋節夫) 
・B面「アロハ・レイ(さよなら恋人)」
・1966年(昭和41年)6月15日発売
・東芝レコード

作曲者「弾厚作」が加山雄三のペンネームであることは広くしられている。作詞は越路吹雪のマネージャーとしても名の知れた岩谷時子。
彼女は「君といつまでも」を始め、加山雄三のヒット曲も多く手がけている。いわば作詞作曲のゴールデンコンビだ。
特に音楽教育を受けていないにも関わらず、本当に名曲を書く人だ。初めて作曲したのは「夜空の星」で、なんと中学二年の作品だという。
ピアノに向い“何となく弾いていたら出来た”というのだから、天賦の才能としか言いようがない。
多趣味であり多才でもある。物事に興味を抱きと徹底的に研究し自分のものにしてしまう性格はゲーマーとしても有名となる。
そして音楽においては、“父に捧げる”ピアノコンチェルトを書き上げるまでになった。

「お嫁においで」は1966年(昭和41年)に公開された同名映画の主題歌で、もちろん加山雄三自身も出演。
見事な和製ハワイアンに仕上げた編曲は、日本にハワイアンを浸透させた草分け的存在の大橋節夫。また、レコーディングにもギターを演奏している。
「君といつまでも」は別格だが「お嫁においでも」カバーされることの多い人気曲だ。
楽曲人気もさることながら、加山雄三というアーチストそのものを敬愛するミュージシャンが多く、60歳の誕生日を記念してリリースされたトリビュートアルバム「60 CANDLES」には21組ものアーチストが参加。

初期のヒット曲の殆どは岩谷時子作詞であるが、二人は殆ど合っていない。出来た曲に漠然としたイメージと共に渡すと、曲にピッタリの詞が上がってきたという。
才能と才能がぶつかり合って生み出された曲が、世に埋もれる筈が無いのである。

売上げ枚数やランキングなどのデータが無いのは、当時はまだオリコンが創設されていなかったからですナ。

「花〜すべての人の心に花を〜/喜納昌吉&チャンプルーズ」

花.jpg
「花〜すべての人の心に花を〜/喜納昌吉&チャンプルーズ」
(作詞・喜納昌吉/作曲・喜納昌吉/編曲・チト河内、久保田麻琴、ライ・クーダー) 
・B面「ヤンバル」
・1980年(昭和55年)6月21日発売
・タイムレコード

サブタイトルである“すべての人の心に花を”がオリジナルの正式タイトル。もとはセカンドアルバム『BLOOD LINE』の収録曲である。
今や沖縄ソングの枠を超え“日本の歌”となり、文化庁によって日本の歌百選にも選定されているスタンダード。
カバーしたミュージシャンは日本のみならず、世界60か国以上で多数のアーチストが好んで取り上げており、読売新聞によると全世界で3000万枚を売り上げているとのこと。
こんな数字を見ると印税の収入も莫大な額になるかと思いきや、ヒットした国の殆どが音楽著作権の整備が出来ておらず、大した収入にはなっていないらしい。

さて、そんな“世界の”スタンダードも、日本でに広く知れ渡ったのが1990年にCMソングとして流れていた“おおたか静流によるカバー”がきっかけだ。
シンセをメインにした少数の楽器での演奏をバックに、サビから聴かせるおおたか静流のヴォーカルは強烈なインパクトで人の心に飛び込んだ。
他にも沖縄に縁のあるミュージシャンはもちろん、演歌やクラシック、ジャズや民謡界にもカバーが残されている。
ただ、オリジナルの喜納友子(喜納昌吉の前妻)が歌うヴァージョンが別格だ。初めて聴いたのが誰のヴァージョンであっても、オリジナルを聴けば根底にある“何かの差”に気づく筈だ。

沖縄“県”となって早や44年。もう“沖縄出身の〜”など付けることもなくなったが、歌手で一番古いのは南沙織…だろうか。
いずれにしても、沖縄の歌やミュージシャンがすっかり“本土”の音楽界に溶け込んでいるのは喜びでしかない。

喜納昌吉&チャンプルーズのオフィシャルサイトには“すべての武器を楽器に”とありますナ。

「心もよう/井上陽水」

心もよう.jpg
「心もよう/井上陽水」
(作詞・井上陽水/作曲・井上陽水/編曲・星勝) 
・B面「帰れない二人」
・1973年(昭和48年)9月21日発売
・ポリドール
・週間7位(オリコン)
・1974年度年間39位(オリコン)

松田聖子が吉田拓郎なら、井上陽水は中森明菜か…的を射ているかどうかはともかく、何かと比較されることの多い両者である。
陽と陰ほどではないにしても、片方には“陰”が見え隠れするのは誰もが認めるところではないか。

レコードを発売しているプロのミュージシャンが“テレビに出ない”というのは、当時考えられない時代であった。
一足先(1972年)に「結婚しようよ」を40万枚以上の大ヒットを飛ばした吉田拓郎もそうであったように、そのスタンスが逆に話題性を呼んだこともヒットに結びついた大きな要因となる。

歯科医の父を持つ井上陽水(本名=いのうえあきみ)は稼業を継ぐべく歯科大学などを受験するが、3度の失敗で断念している。
中学三年でビートルズの虜になって以降、自作の歌を作ったりテープレコーダーに録音するなど、趣味以上の関わりを持っていた。
一度は“アンドレ・カンドレ”としてデビューしシングル3枚を出すがヒットせずに終わる。
1972年(昭和47年)の再デビュー時には井上陽水として「人生が二度あれば」をリリース。
奥に隠れた“何か”を探らずにはいられなくなる詞を親しみやすく流れるようなメロディーに乗せ、そして独特の美声で歌うスタイルは幅広い世代から支持される。
歌う声と普段の話し声は違うと言うが、この人の場合は「話し声からして惚れ惚れするような美声」とは、友人でもあるタモリ氏の弁。

テレビに出るようになった時期も理由も分からないが、インタビューなどの受け答えには心地よい“緩さ”があり、この先まだまだ名曲を出してくれる期待をさせてくれる。
玉置浩二や奥田民生らとの共演共作も多くの人に受け容れられ、才能の枯渇とは無縁のアーチストといえよう。

忌野清志郎との共作で、B面に収録されている「帰れない二人」も、永遠の名曲ですナ。

「学生街の喫茶店/GARO」

学生街の.jpg
「学生街の喫茶店/GARO」
(作詞・山上路夫/作曲・すぎやまこういち/編曲・大野克夫) 
・B面「美しすぎて」
・1972年(昭和47年)6月20日発売
・日本コロムビア
・1973年度日本有線大賞新人賞
・週間1位(オリコン)
・1973年度年間3位(オリコン)

テレビドラマや映画でのロケ地について、推測はもちろん“巡礼”などと称して現地へ足を運び、ブログや動画サイトで紹介しているのを見かける。
ヒット曲の歌詞に登場する場所も同様、様々な情報が飛び交う現代はネット社会としては当然のことだろう。
この「喫茶店」はどこか?諸説ある中で東京都千代田区の明治大学付近に実在する店が有力とされていた。
しかし、作詞した山上路夫本人が後年“参考にしたような喫茶店はない”としている。
作曲はすぎやまこういち。ザ・タイガースにヒット曲を多数提供し、ゲームミュージック“ドラゴンクエストシリーズ”も手がける日本を代表する作曲家だ。

当初はB面で「美しすぎて」の方がA面だったことは有名なエピソードで、ジャケットのリニューアルもあり発売は1972年ながら翌年の春にオリコン1位が7週続く。累計の売上げ枚数はミリオンを突破している。
この頃は吉田拓郎の「結婚しようよ」を筆頭に、所謂“ニューミュージック系”の曲が歌謡界を賑わしていた。

非常にハーモニーの綺麗なグループで、ヒット曲の他にも佳曲を多く残している。
メンバー三人の中で「学生街の喫茶店」のリード・ヴォーカルを取っていた大野真澄(通称・ボーカル)のみが存命であり現役のミュージシャン。

歌詞に登場する「ボブ・ディラン」で初めて彼のことを知った向きもいるだろう。
そう言えばGAROには「ビートルズはもう聞かない」なんて曲もありましたナ。

「月がとっても青いから/菅原都々子」

月が.jpg
「月がとっても青いから/菅原都々子」
(作詞・清水みのる/作曲・陸奥明/編曲・長津義司) 
・1955年(昭和30年)5月発売

「月がとっても青いから 遠回りして帰ろう」にこの歌の全てが凝縮されているのではないだろうか。
そう思ってしまうほど歌が始まるやいなや引き込まれる歌詞、メロディー、そして歌声だ。
そして“タンタタタッタ”の軽快なリズムを基にした、少し長いめのイントロは印象的な歌い出しを増幅するために一役買っている。
僅かな抑揚の部分を除いて見事なヨナ抜き音階で最後まで飽きさせないメロディーは、父親である陸奥明の作品。
戦後の流行歌手として「エレジーの女王」とまで評された菅原都々子だだが、昭和三十年代も終わりに連れヒットが出なくなったいた。
娘のイメージを変え再起をはかるため、清水みのるに「明るく楽しい歌詞を」依頼する。大した時間もかからずに出来上がった詞は、注文通りの仕上がりであった。

詞の出来映えに満足し、父・陸奥明はメロディーを二種類用意し娘・菅原都々子に選ばせることにした。
本来明るい性格の彼女は世に出た方のメロディー気に入り、父自らのピアノでレッスンしレコーディングの日を迎える。
“エレジーの女王で売って来たのに、こんな明るい曲は如何なものか”というレコード会社の思案もあったが、結果的にミリオンセラーという快挙を成す。
一説には当時のレコード市場規模を考えると3000万枚になるとも言われる大ヒット、その勢いは題名もそのままに映画化もされている。

当然ながら「紅白歌合戦」にも出場するのだが、それは第一回の紅白。しかも紅組が先行でトップバッターであった。
66回の歴史がある紅白の、栄えある第一回歌唱歌手でもあるのだ。

この「第一回紅白歌合戦」の放送日は“1951年(昭和26年)1月3日”…当時はお正月番組だったんですナ。

「時代/中島みゆき」

時代.jpg
「時代/中島みゆき」
(作詞・中島みゆき/作曲・中島みゆき/編曲・船山基紀)
・B面「傷ついた翼」
・1975年(昭和50年)12月21日発売
・キャニオンレコード
・週間14位(オリコン)
・1976年度年間88位(オリコン)

レコードジャケットの中島みゆきを見て欲しい。地方の公立高校のフォークソング同好会に必ずいるようなタイプでははないか。
写真は23歳の頃と思われるが、まだ少女のあどけなさも感じられる表情で歌う「時代」は、タイトル同様にスケールの大きな歌である。
メロディーはプロの作家にみられるワザやひねりもなく、知ってるコードを3連アルペジオで口ずさみながら作ったような素朴さを感じる。
簡単なギターから“いまはこんなに”で始まる8小節は、その後は出て来ない謂わば“歌詞のあるイントロ”であり、贅沢とも言える構成だ。
のちにヴァージョン違いや、多くの歌手のカバーもあるが、シンプルなアレンジのオリジナルヴァージョンはやはり別格。

自作自演、所謂シンガーソングライターの多くは“歌詞の人”か“メロディーの人”に大別出来る。
もちろん、共に非凡であることに違いないが“敢えて”言うと、僅差でもいずれかが秀でてると言える。
中島みゆきは詞曲ともにかなり高いレベルであり、唯一無二のオリジナリティに溢れているが、どちらかと言えば“歌詞の人”ではないだろうか。
この「時代」にしても歌詞が別のものでもヒットはしたであろう。だが、ここまで長きに渡り愛され人々の人生に関わりはしなかった筈だ。

中島みゆきの音楽性はキャリアの長さ以上に奥へも深く、そのキャラクターまでも範疇に入れると軽く本一冊は要するのではないか。
ネット上でも「中島みゆき研究」に類する個人サイトが多数存在し、その殆どが非常に興味深いものとなっている。
この「時代」だけでも突き詰めればキリがないかも知れない。
“中島みゆき=魔女”なる説も言い得て妙ではありますナ。

「圭子の夢は夜ひらく/藤圭子」

夢は.jpg
「圭子の夢は夜ひらく/藤圭子」
(作詞・石坂まさを/作曲・曾根幸明/編曲・原田良一)
・B面「東京流れもの」
・1970年(昭和45年)4月25日発売
・キングレコード
・第1回日本歌謡大賞
・週間1位(10週連続、オリコン)
・1970年度年間3位(オリコン)

“演歌の星を背負った宿命の少女”という、何度か読み返してしますうようなキャッチフレーズでデビューしたのは18歳。
一点を見つめ身じろぎ一つしないサマ、色白で端正な顔立ちから発せられるドスの効いたハスキーボイス、それらは見聞きする者を魅了した。
仰々しいキャッチフレーズもうなずかせるだけの何かを、藤圭子という歌手は持ち合わせていたのだ。

「夢は夜ひらく」は歌詞違い(作詞者もそれぞれ)で、なんと20以上ものバリエーションが確認されている。
作曲は曾根幸明とされているが原曲がある。練馬の少年鑑別所で歌われていた曲を曾根幸明が採譜(補作も)したまでである。
歌謡曲としてはスタンダードとして当時の歌手から現在活躍するミュージシャンまでが幅広くレコーディングしている。
タイトルに“圭子の”が付くように、デビューからの作詞家である石坂まさをが彼女の為に書き下ろした

曲の方はシンプルなスリーコードの繰り返し。その上の流れるメロディーもまた同じモチーフが繰り返されているが、起承転結の形としてまとまっているのは“補作”の仕事だろうか。
「私」を「アタシ」と歌うところや、最後のフレーズ「夢は夜ひらく」の頭の休符あえて外すあたりは持って生まれたセンスといえよう。
ジャジーなアレンジでの歌唱も残しているが、実に決まっている。存命ならまだまだ活躍できたであろう。

一番ヒットしたのは「圭子の〜」であるが、それに倣ったのだろうか八代亜紀は『亜紀の夢は夜ひらく』、香西かおりは当然『かおりの夢は夜ひらく』。
このパターンが多数あるが田端義夫は『バタヤンの夢は夜ひらく』とし愛川欽也に至っては『キンキンの夢は夜ひらく』だ。
水原弘の『おミズの夢は夜ひらく』はともかく、三波伸介とてんぷくトリオ『わしらの夢は夜ひらく』には笑うしかない。何でもありですナ。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。